為三さん!タイトルロゴイメージ

あらすじ

ものがたり

大正3年冬、北秋田市米内沢出身の成田為三さんは秋田駅のホームにいた。東京さ何あるべ?・・・期待を胸に、作曲家になる夢を叶えるべく上野の音楽学校へと向かうのだ。
生活は貧しいけれども音楽への情熱は人一倍。勉強に恋に忙しい毎日だ。転機は、在学中に作曲した「浜辺の歌」の大ヒット。それをきっかけに、童謡誌『赤い鳥』の作曲家となり、音楽の道を極めるべくドイツ留学。 帰国後は賢明な妻・文子と熱心な弟子・岡本を共に、故郷に錦を飾る凱旋公演。男として、作曲家として、順風満帆な人生を歩んでいた。  
そんな為三さんの元に思わぬ仕事が舞い込んでくる。恐慌と戦争不況で疲弊 する秋田のために「秋田県民歌」の作曲を依頼したいというものだった。なんとその作詞は、師範学校時代の友人・倉田政嗣。友人との曲作りは、故郷への想いと音楽への情熱をさらに燃え上がらせた。  
しかし、そんな為三さんの元にも戦争の足音は迫ってくるのだった―――  
「ふるさとみたいな歌を作ろう」夢を見続けた為三の情熱が、人々の心に光をともす!

成田為三とは?

成田為三(1893~1945)

現北秋田市米内沢に生まれる。秋田師範卒業後、毛馬内小学校で一年間教鞭を執り、東京音楽学校(現東京藝術大学)に入学。在学中、『はまべ(浜辺の歌)』を作曲する。雑誌『赤い鳥』専属作曲家として子どもたちのために多くの作品を発表。ドイツ留学後の1930年、「秋田県民歌」を作曲(原詩は秋田師範の同級生である倉田政嗣)。1945年4月、空襲で焼け出されて東京から秋田に疎開。戦後、音楽家としての新たな夢を持って10月28日再び上京するが、翌29日脳溢血により倒れる。成田為三亡き後も「秋田県民歌」は歌い継がれ、三大県民歌の一つと呼ばれている。

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