22歳の東海林太郎は千秋公園の松に登り、遥か海を見ながら夢見ていた。「世界中を音楽で満たしたい」と。
先輩の成田為三にも音楽家になる道を熱心に薦められるが、父親の猛反対でその夢は叶えられず、早稲田大学を出て満州鉄道に入りエリート社員の道を歩み始める。
しかし仕事振りが認められずに左遷の憂き目に会い、30歳で満鉄を退社し日本に戻ると中華料理店の経営に失敗。貧困のどん底に突き落とされる。
だが、身を助けたのは歌だった。妻シズと特訓を重ね、音楽コンクールのバリトンの部で一位に入賞し、「赤城の子守唄」が大ヒット。
日本中に東海林太郎の歌声が響き渡り、国民的歌手になる。
しかし、第二次世界大戦後、占領軍によって太郎は持ち歌を歌うことを禁じられてしまう。
何のために歌うのか、誰のために歌うのか、時代の大きな流れに抗いながら、太郎は本物の歌を探す旅に出るのであった。